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年表 ~1611年

2021.02.17
西原

宮古島の交易、人頭税、古謡等を取り巻く歴史と歴史資料を読む

?~前1100  中国最古の王朝の殷墟から貨幣として使用された子安貝が大量に出土している。(資料:琉球・沖縄史)

中国沿岸には子安貝は生息しないので、アジア最大の産地である宮古島諸島近海でとれたものと考えられる。柳田国男はこれに注目し、中国から貝を求めてやってきた殷人が宮古島に稲作を伝え、それが北上して沖縄・奄美・九州へ伝わったという「海上の道」説を唱えた。しかし、いまのところこれを証明するものはなく、むしろ否定的な要素の方が強い。

 

北宋 熈寧年間(1068~1078)の古銭・熈寧(きねい)元宝が宮古の住屋遺跡から1982年に出土。(資料:宮古博物館)

 

1317  婆羅公管下密牙古人(はらこうかんかみやこじん)温洲永嘉縣に漂着。(資料:温州府志)。

撤里即地面(シンガポール)に行き貿易しようとしたが難破。

温州:中国浙江省南部の都市。通訳を通して話ができた。

※琉球人漂流民への中国の対応:台湾の学者陳大端先生の統計によると、雍正・乾隆・嘉慶(1723~1820)の三代九八年間に、中国へ漂着、あるいは中国をへて帰国させられたらせられた漂流船は全部で144艘にものぼる。それだけ、琉球に対して親交があったと考えられる。

 

1349  察度(30歳)即位と伝わる。(資料:球陽)

羽衣伝説の話。

 

1372  中山王察度、はじめて明に朝貢する。(資料:球陽)

※進貢船は、中国から支給された。尚巴志の時代には、30隻の船が明から支給されたことが記録に残っている。乗組員の人数は当初、制限はなかったが、1475年に一隻の乗りこみ人数は150人以内と決められた。

※この頃、目黒盛豊見親、与那覇原軍に勝つ。

※「目黒盛豊見親が島鎮めのアヤゴ」、「唐人渡来のアヤゴ」等。

 

1388  与那覇勢頭豊見親、白川浜より中山へ上る。(資料:宮古博物館)

球陽:宮古の与那覇勢頭豊見親、初めて款(カン)を中山に納る。

丑寅(うしとら)※那覇市泊村に石碑。

 

1390  宮古(与那覇勢頭豊見親)・八重山始めて来朝入貢す。(資料:球陽)

 

1404  冊封使時中、詔(みこと)を賚(たまう)して国に抵(あた)る。(資料:球陽)

※冊封船の大きさは明代には長さ50~60m、幅9~18m、4~15m、マストの高さは約22m。乗組員は400~500。大小2隻の船に分乗。福州から那覇港に着くのは 早くて3日、遅い時には19日も要した。

天順年間(1457~1463)宮古山の空広、中山に入覲(キン)す。(球陽)

 

1474  仲宗根豊見親、宮古島首長となると伝わる。(宮古博物館資料)(資料:球陽、宮古博物館)

 

1477  朝鮮済州島人漂流(資料:朝鮮王朝実録 琉球資料集成)

 

1500  中山王府、八重山に遠征してオヤケアカハチを討つ。(球陽)

宮古・八重山に頭職を置く。(球陽)(資料:球陽、宮古博物館)

※このときから、首里王府の実質的に認める主長と考えられる。また、このときから八重山の統治者は王府派遣の役人ではなく、仲宗根豊見親の二男、ついで三男を配置。三男は八重山の女性を娶ったようだ。八重山は仲宗根豊見親の支配にあったためにかなりの抵抗があったようだ。

※この頃の歌謡として「仲宗根豊見親、主長となりし時のアヤゴ」、「仲宗根豊見親初めて年貢を捧げて上国せし時のアヤゴ」、「根間ぬ主」、「四島の主のアヤゴ」、「古見の主がオヤンマのアヤゴ」、「いきぬ ぷーず」等がある。

 

1513  金志川那喜多津(キンスキヤーナキタツ)、大般若経(だいはんにゃきょう)、600巻を求む。(球陽176、「宮古史伝」)

 

1522  与那国の鬼虎、仲宗根豊見親に討たれると伝わる。(資料:球陽、宮古博物館)

※池間からの参加者は「29、池間生まれ、あげましのけざ(ぎさ)」、「はなれ生まれ、尻(しし)の座(ざあ)のぜん、」の二人。

※この頃の歌謡は「仲宗根豊見親与那国攻入のアヤゴ」、「鬼虎の娘のアヤゴ」、「可憐なる鬼虎の娘を歌いしアヤゴ」がある。

 

1522(嘉靖壬午)宮古山の鯖祖氏玄雅、宝劒(ケン)を献上す。(資料:球陽)

翌年の夏、亦中山に入覲(キン)し、恭しく金銀簪二(金鳳銀茎一・獅銀茎一)

・白絹衣裳を賜はりて帰島す。(181球陽)

 

1532   仲屋金盛友利の金志川那喜多津を討つと伝わる。仲屋金盛、中山王・尚清より、咎めを受け自害し、豊見親の称号、廃止されると伝わる。(球陽、「宮古史伝」)

 

1532   おもろさうし第一巻編集

 

1583   宮古上布のはじまり

 

1592   豊臣秀吉、朝鮮侵攻のため琉球に賦役を命ずる。(資料:宮古博物館)

 

1597  長真氏砂川親雲上旨屋ら中国から薩摩芋を持ち帰ると伝わる。(資料:宮古博物館)

 

1605  野国総管福州より甘藷を持ち帰る。(資料:球陽)

※サツマイモの原産地は中南米でコロンブスがアメリカ大陸から持ち帰ってヨーロッパに広められたものだと言われている。それがスペイン人によって東洋に伝えられ、フィリピンから中国、中国から琉球にもたらされた。

 

1609  薩摩藩が琉球王国を軍艦100余隻、3000の兵で制圧。(資料:球陽、琉球・沖縄史、宮古博物館)

※薩摩の琉球侵攻の主な理由:

※7000人の10カ月分の兵糧米と名古屋城建築の負担金:半分は調達、残り半分は薩摩から借りて納めたが返納せず。

※1602年、陸奥国・伊達領内に琉球船が漂着した。翌年、家康は島津氏に命じて、琉球人を送還し、琉球国王に幕府への聘礼(へいれい)を促した。家康は、琉球を幕府に従属させ、明との貿易の復活交渉に利用しようと考えた。

 

1611  薩摩藩、琉球(宮古・八重山を含む)の検地を実施する。(資料:琉球・沖縄史、宮古博物館)

※琉球の総石高8万3080石、宮古1万1288石、八重山5980石。

※三重・四重・五重支配:薩摩・首里王府・在番・村番所・村の5人組

 

1611  祥雲寺創建される。(資料:球陽、琉球国由来記)

 

(文責 仲間博之)

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Q.

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What is the sun called in Nishihara-Ikema, Miyako Island?

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