伊良部島 佐良浜港
これまで2度にわたり、宮古語池間方言について記事を書いてきました。「宮古語池間方言に見られる変わった音」という記事では、言語学の中の音声学および言語類型論について言及しました。
「”意味”のある音」という記事では、音声学・音韻論という分野に触れました。今日は言語学の中での形態論という分野を紹介したいと思います。
突然ですが、ここで頭の体操の時間です。
以下、沖縄の宮古語池間方言を載せています。以下を読んで、「魚が泳いでいる」「猫が魚を食べている」は宮古語池間方言で何というでしょうか。考えてみてください。
Baazzuufaiui ‘私は魚を食べている.’
Mayunusiniinyaan ‘猫が死んでしまった.’
Baauruugyaafaan ‘私はこれは食べない.’
Mayunudumiiraiui ‘猫が見えている.’
Unuzzuugyaafaiui ‘この魚を(私が)食べている’
Baauugaain ‘私は泳げない’
Yaduuffiinyaan ‘ドアを閉めてしまった.’
「魚が泳いでいる」 → ?
「猫が魚を食べている」→ ?
答えは一番下までスクロールしてね。
みなさんは、このアルファベットの羅列を見て、どう思いましたか。圧倒されましたか。初めて、あるいはあまり習得していない言語を聞いた時の印象に近いと思います。意味の区切れ目が分からないと理解するために処理をするのが難しいですね。以下のように提示してみたらどうでしょうか。今度は英訳にしてみました。
Ba a zzu u fai ui ‘I am eating a fish.’
Mayu nu sinii nyaan ‘A cat died.’
Ba a uru u gyaa faa n ‘I don’t eat that.’
Mayu nu du miir ai ui ‘Ah, (I) can see a cat.’
Unu zzu u gyaa fai ui ‘That fish, (I am) eating’
Ba a uuga ai n ‘I cannot swim’
Yadu u ffii nyaan ‘(someone) closed the door.’
今度はいかがでしょうか。スペースに何らかの意味があり、スペースであいてあるひとかたまり(ba、a、zuu、u、fai、ui)が何らかの意味をなす言語表現だと思われるかもしれません。このようにすると、baとはどのような意味だろう?aはどのような意味だろう?と分析して考えることができますね。
このように、何らかの最小限の意味で区切られたひとかたまりを形態素といいます。
Baazzuufaiui ‘私は魚を食べている.’ は以下のような形態素に分解して考えることができます。
Ba a zzu u fai ui
私 は 魚 を 食べて いる
さて、私はここまであえて「単語」という言葉の単位についての概念をあえて使ってきませんでした。単語とは何でしょうか。「私」は単語でしょうか。はい、という人が多いと思います。「は」は単語でしょうか。うーーーん、と頭を抱える人が出てくると思います。少なくとも、「私」の単語らしさと同じような単語らしさを「は」に対して抱かないと思います。”意味の最小限のまとまり”を形態素と呼んでいますが、形態素を用いることによって、「Ba」「a」「zzu」「u」「fai」「ui」も罪悪感なく(?)同等に分析することができますね。
日本の国語の授業で「文節」という概念を勉強すると思います。例えば、Baazzuufaiui ‘私は魚を食べている’は
Baa / zzuu / faiui
と3つの文節に分けることができます。
さらに、「単語」というと、国語教育の中の自立語・付属語とを思い出すかもしれません。この単位を用いると、
Ba(自)a(付) zzu(自)u(付)/ faiui (自)
と考えることもできます。
形態素という尺度を使うと、faiui(食べている)はfai(食べて) ui(いる)の二つに分解することができます。「いる」は動作の進行や状態を表す機能を持っているので、「いる」は一つの形態素だと解釈できるからです。国語の授業では「食べている」は自立語で、これが言葉の最小の単位だと習いますが、「いる」が「食べている」とひとかたまりになって捉えられるこの考え方に対して違和感を覚えた人もいるのではないでしょうか。
答え:
「魚が泳いでいる」 → Zzu nu du uuga ui.
「猫が魚を食べている」→ Mayu nu du zzu u fai ui