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静岡市北部の井川方言について、2回目の記事になります。
前回の記事では、「クソヘビ(マムシ)」という語について書きました。
今回は、井川方言に見られる音の特徴についてご紹介したいと思います。
突然ですが、皆様は、初めて降り立った地で「へ ぱしるだか?」と聞かれたら、どのように答えますか。
実地調査で初めて井川を訪れた際、地元の方からこのように尋ねられた私は困惑し、曖昧な笑顔で「ええ」などと答えつつ、その場を去ることしかできませんでした。
「ぱしる」については、ある程度の推測が可能でした。
「井川方言では、ハ行で始まる語が、パ行になることが多い」という事前情報を得ていたのです。
「ぱしる」は、おそらく「走る」であろう、と脳内で変換しました。
問題は「へ」です。
しばらく考えましたが、「屁」以外のオプションが思いつきません。私の心が下劣なせいでしょうか。
重要な語を失念しているのではないか、と辞書で確認しましたが、やはりエントリーされているのは「屁」のみです。
後日、明らかになったことですが、この「へ」は、「へえ」や「はあ」、あるいは「はえ」とも言われるもので、「すでに、もう」という意味でした(諸国方言物類称呼の巻五にも、東国方言の「はあ」は「はや」のことだ、と書かれています)。
となると、冒頭の「へ ぱしるだか?」は、「もう走るのか?」という意味になりそうですが、録画機材や資料などを詰め込んだ巨大な荷物を抱えた、見るからに運動不足の中年研究者に「走るのか」と尋ねる人などいるはずもありません。
これも後に明らかになったのですが、「ぱしる」とは「行く、移動する、帰る」などを意味する語でした。
つまり、井川の方は「もう帰るのか?」と聞いてくださったのです。
(このエピソードの詳細は、月刊みんぱく2021年12月号 「ことばの迷い道」をご参照ください)
前置きが長くなりましたが、今回は、井川方言の「パ行音で始まる語」について簡単にご説明します。
このような音韻的特徴が最初に紹介されたのは、1940年代のことです[1]。
当時は、上記の「ぱしる」の他、「ぱじめる」(始める)など、10の語が挙げられました。
その後も複数の研究者によって、「ぱねる」(跳ねる)や「ぴろう」(拾う)、「ぱさむ」(挟む)など、多くの語が収集されました。
「ぱさんだ」って言ったね。
ぱさんじゃっただ、「ぱさんじゃったで(=挟んじゃったので)、いたーい」
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当時は、「井川には古代日本語の特徴が残っている[2]」と学界の注目が集まったようです。
しかし、井川方言のパ行音で始まる語は、そのほとんどが動詞です。よって、現在では、強調の接頭辞(語の前につくもの)が落ちた「新しい変化」ではないか、という説が有力です。
例えば、「剥がす」を強調する際に「ひっぱがす」のような表現を使いますが、この「ひっ」が取れて、「ぱがす」になったのでは、と言われています。
他にも、井川では、「ほかす」(放る)という語が使われますが、「ぽかす」、あるいは、「ひっぽかす」も使われ、強調の度合いがそれぞれ異なります。
ほかす → ぽかす(やや強調)→ ひっぽかす(強調)
さて、ここまでお読みくださった聡明な皆様の中には、「ぱしる」が「行く」という意味なら、「走る」はどのように表現するのか気になって眠れない、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。
これは井川に限らず、静岡の多くの地域で使用されますが、「走る」は「飛ぶ」になります。
井川の方に「遅れそうだから飛んでく」と言われた時は、自家用ヘリでもお持ちなのかと不思議に思ったものです。
それでは、井川の小河内集落で生まれ育った長倉うた子さん(86歳)の発話を聞いてみましょう。
ほうか、ほいじゃ、一緒にぱしらざあ(=行こう)
飛んでぱしらのうと(=走っていかないと)遅刻するで?
今日は、朝、はえ(=もう)、遅刻しそうだから、飛んでぱしらっ(=走って行こう)
もしも井川に行く機会がありましたら、そして井川の方に「へ ぱしるだか?」と聞かれるようなことがありましたら、自信をもって「ぱしるぞ(帰る)」あるいは、「ぱしらのうぞ(帰らない)」とお答えください!