井川神社からのぞむ井川湖
静岡市北部の井川方言について、4回目の記事になります。
過去の記事も是非、ご覧ください。
遡ること数ヶ月、勤務する大学宛に一本の電話がありました。
かつて静岡県史編纂特別調査員をなさっていたという方からで、「30年以上前に井川の昔話を収録したテープがあるが、送りましょうか」とのことでした。
私が井川方言について研究していることを新聞記事で知り、連絡をくださったそうです。
私は、嬉しさと興奮のあまり椅子から転げ落ちそうになりながらも、受話器を握ったまま、「是非、お願いします!!」と何度も頭を下げました。
テープ数本がすぐに届きました。
若かりし頃は、オリジナルテープを作り、友人にプレゼントする、などという、恥ずかしいことをしていた私ですが、もはやテープを再生する機器は持ち合わせていません。
すぐに業者に委託し、音質の調整なども含めたデジタル化をしていただきました。
それでは、聞いてみましょう。
1991年に収録された森竹鉄蔵さん(1904年生まれ)による昔話です。
将来、方言研究に携わりたいという奇特な方は、是非ご自身で文字化してみてください。
「いや、レベル高っ!!」と思った方、ご安心ください。
井川方言の調査を始めて5年目になる私ですが、初めて聞いた際には、ほとんど聞き取れませんでした。
来る日も来る日も、0.5倍速で聞き続け、ようやく文字化したものが、以下になります。
へその芯をぬいて 針へ糸を入れて袴の裾(?聞き取り不能)三針ぬって、
やってみようって ほいて そうしてやるってゆうと、
それが行ったところ ずうっと、訪ねて行ってみると、
岩穴へ入ってった
20秒に満たない音声ですが、こうして文字に起こすには、途方もない時間がかかります。
音声認識技術が発展したとは言え、こればかりは人手でやるしかありません。
多くの大学教員にとって、大学入学共通テストの監督業務[1]こそ、「人工知能に奪ってほしい仕事」第1位だろうと想像しますが、私にとっては「井川方言の文字化」が、ぶっちぎりの1位です。
さて、この話は「蛇婿入り」という民話の一部です。
女性のところに謎の男性が頻繁に訪ねて来る。正体を知ろうと、男性の袴の裾に、こっそり糸を縫い付け、その糸を辿っていくと岩穴へ続いていた、という場面になります。
ところで、先ほどの音声に出てくる「へその芯」とは、一体、どういうものなのでしょうか。
森竹さんは、以下のように説明されています。
ヘソノシンを抜いて、ヘソノシンってゆーと、こりゃー、ほれは、
フジ、フジで糸を取って、ヘソダマっていう玉にしる(=する)ですよ。
ほいで、芯から糸を出すですよ。
しかし、「フジで糸をとる」とは、一体、どういうことなのか、「ヘソダマ」とは何のことなのか、謎が謎を呼ぶばかりです。
このような時、助けてくださるのは、やはり井川の皆様。
教えてくださったのは、長倉うた子さん(1937年生まれ)です。
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これをとって、あれ、根っこだよ。根っこ。
ほれとか、クズフジ(=葛)の根っことか、ほれをとってね
太いから叩いてね、ほして、あのー、ええかげんなとこで、今度は大きい鍋で
灰汁を入れて、あの、燃し灰の、あの灰汁を入れて、ぐつぐつ煮るだよ
ほして、ほれを洗って、今度は干しといて、吊るして干しといて
また、ほれを使う時、水に戻して、こうほそーく割いてね
ほしてこう、紡いでいく
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森竹さんは、実にさらりと「フジで糸を取って」とおっしゃっていましたが、フジの蔓から糸を作るには、大変な労力と時間が必要だったことが分かります。
硬い蔓を叩いて柔らかくし、木灰を使って何時間も煮炊き、川の水で洗いながら繊維を取り出し、乾燥させ、そこから撚って糸にしていく…
文字にするだけで失神しそうなほど、骨の折れる工程です[2]。
また、「へその芯」とは、でき上がった糸を巻きつけて玉状にしたものを指すのだそうです。
この話をしている際、協力者の方々が頻繁に「フンダコ」とおっしゃるので、何のことだろうと思っていたら、「藤太布=蔓性の植物を使った糸で作られた布」のことでした。
ちなみに、今回送っていただいたテープは、民俗学調査に用いられたものだそうです。
これまで、民話の研究は、民俗学者が、方言の研究は、言語学者が、それぞれに知見を積み重ねてきたようなのですが、互いの死蔵データを共有することで、どちらの学問も一気に進展しそうな予感がします[3]。
[1] 監督業務は、基本的に、大学教員によって行われています。試験中は、受験生の妨げとならないよう、存在を消し、無の境地で、ただただ試験時間が過ぎるのを待ちます。不測の事態が生じた際には、すぐに対応せねばならないので、当面、人工知能に奪われることはなさそうです。
[2]『別冊太陽「日本の自然布」自然布を探ねて(2)藤布』 平凡社,2004.
[3] 近年、民話資料を方言研究に活用する動きも出てきます。例えば、2023年度に科学研究費助成金に採択された課題「方言昔話資料のデータベース化と言語研究への活用」(代表:三井はるみ氏)など。